気付き

深夜にタバコをふかす。昼間に吸うのと夜に吸うのではだいぶ感じが違う。血圧とかの問題だろう。

今日誰かが三寒四温とかいうワードを使っていたが、急に寒くなったりならなかったりするこの時期の現象を雑に表す便利な言葉があるもんだと思った。

それはまあいい。それよりも最近は新しく何らかを知ることについて冷めた気持ちになっている。そのことについて考えていた。

 

ある事象や概念などについて、新規的な発見が発生した際に、その発見が対象の本質的要素というか全体性を濃く意味付ける要素のように感じられてしまうのは、個人的には脳のバグだなぁと感じてしまう。

勿論、生存や種の保存とかに合目的化されてるなどの身も蓋もない話をすればそうなんだろうけど、そういう話は芸がないし3.4年前に飽きている。

発見直後の情報の瑞々しさというか、即自性というか、そういうものから増長させられる情報量に対して、おれの脳のスペックが処理しきれなくて過大に意味付けしてしまう部分はあるだろうし、その仮説が当たっているなら改めておれの脳機能のポンコツさを恨むところではある。

何が言いたいかというと、ほんの1.2年前(実存的な観点からの1.2年がほんのと言えるかは怪しいが……)に現象世界やレビィナス的文脈でいう「顔」の、本質のように感じられた要素の発見が、今から考えればほんの一部分を照らした側面にしか過ぎないし、同時に今自分が強めに意味付けしている発見も然程のものではないということを考えてしまっている。

世界や人生の意味のなさなどの無味乾燥とした話をしたい訳ではない。最近は意味論こそやや宗教じみてるのではという見地でもある。そういう議論を離れたとしても、意味を見出そうとするのは人として自然の在り方で、そのことを相対化するのもかなり不毛な気がするのである。

話は逸れたが、要は即時的に大きな情報量を持つ発見が、脳の生理的サイクル(要は時間)を経て然程のものではないという再評価に収束していく中で、その発見自体から引き起こされる興奮とか、もっと自虐的に言えば救済性のようなものが些事として相対化されてしまうところがあって、それを言語化したいと思っていた。

でも、少しばかり前向きに考えれば、一部の側面を示したにすぎない発見を脳が即時的に過大評価しているものとしても、そういう積み重ねが事象や概念に対する認識に意味付けとしての熟成を与えてるのだとすれば、認知不協和の悲哀はあるとしても、そういうものだとして受け容れてやっていくしかないのだろう。

まああまり考えても良い方向に行くものでもないだろうし、こういう感じで折り合いを付けて、力を入れない程度の発見をやっていくしかないんだろうな。

水野朝陽っていう女優が良い。