生きること

ベイクドチーズケーキストレートティーのセットを頼み、品が来るまでたばこをふかす。

 

生きていくことに何のモチベーション湧かない。やることがない。あらゆるものが些細なことに思われる。無教養ゆえの頽廃なのだろう。

具体的な生活や生きていく上で直面する細かな課題の連続とか、そういったことを記述できたらどんなに良いかと思ったりもする。そういった断続的な世界との交わりの中では精神の機微に気を使う間もないし、結局記述することはないのだろうけど。こうした記録の場ではやはり抽象的な思考の表出に留まってしまう。

 

幸福を目指すことに脳がもう少しはっきりとインセンティブを感じる構造だったら良かったと思う。何が良かったのかは分からない。少なくともこうして何の生産効力を持たない文章を吐き出すことはない。ただ、自己の幸福認知構造に合わせて振る舞いや思考機序を最適化していけば良いのだ。ただそれだけ。完璧は無理にしろある程度の最適化を行える知能はあるだろう。だが、そういった事をしない。目標設定、インセンティブ認識、そういったものがどうしても幸福を曖昧に捉える。おれは一生幸福といったものに捉えられることなく、こうして一人嘆きを続けていくのだろう。哀れだと思うのにももう飽きた。救われたいとは思う。だが救いなどはないのだ。

 

超俗性は弱さ以外の何者でもない。凡俗であることを許容出来ない。それは生きていく上で余りにも大きな枷のように思う。骨の芯から俗性を排除する気運が発せられる。俗を廃した先に何がある訳でも、また何かあったとしてそれが大きな意味や報酬をもたらす訳でもない。ただ、精神の構造がそのように設計され、枷から逃れることもできず苦しみながら生きていく。

自分が何を目指し何を求めているのか全く分からない。いつまでも分からないのだろう。世界を嘆きながら、俗の流れに逆らうこともできずにただ何となく過ごし、生きてきた道を肯定していく切ない作業に身を捧げることしか出来ないのだろう。

とにかく今は高い失望感が身を包み何も希望がない。求めすぎているな。出家するか。