新生活

例えば何らかの形で明日死ぬことが確定したとして、半年前ぐらいまでの自分であれば、「ああ、そうか了解」ぐらいのものだったのが、今は「あーまじか、それは萎える」という感じには生に執着が発生してきている。

この手の問いはだいたい暇なときによく自問されてそれはそれで面倒なのである。

 

それで、その執着の正体は何かと分析していたんだが、(そもそも自己精神を自己精神が省察するという行為自体が愚かしいとはいつも思うが)

どうも、小金が入ったことでもう少しブルジョワの生活を体感してみたいとか、そういうクソみたいな欲望とかがあったりする。

向上心も使いようだ。インテリが解く問題を間違えると面倒というのは社会でもありがちなパターンで、最適化へのコミットが強い分厄介であるみたいなのがよく散見されるっぽいが、それみたいだ。

 

まあ、他にも学をやったり世界に対するあらゆる試行とそのフィードバックの内面化が、自己の精神発達のダイナミズムの中に一定量取り込まれたときにどのような地平があるのか見てみたい的な淡い期待もある。

まあたぶん何もなくて変わらずただのっぺりとした世界が広がっているだけだろうが。

 

そういう将来というか潜在性への期待みたいなのは往々にして裏切られるし、歴史が飽きるほど証明してきたようにそういったものとは無関係に人間は死ぬし、まああんまり考えずやっていくしかないというお決まりの結論になる。やっていくしかない。

 

何が言いたいかというと、東京来たけどやることない。