無理解の正当性

梅雨が明けたと思ったらまた雨だ。しばらく続くっぽい。

 

雨は低気圧がどうのこうのになって降る、というのを義務教育で習った気がする。義務教育は全部無視していたのに、自分がなぜ義務教育の内容を大方覚えているのかは謎である。

 

ともかくとして、低気圧のせいで神経衰弱の僕はオワオワリしている。低気圧が来るとオワってしまう身体なのだ。仕組みは調べたことないけど、観測範囲内の同じような人類もまた軒並みオワっているので、低気圧がお気持ちな人々を惨殺していくのは確かなのだろう。

 

ところで、最近は広義での「力」という概念について考えている。たとえば僕は低気圧で即死するので低気圧への耐性というか抵抗力が恐ろしく低い。だが普通の人は耐性があるのでそこについての「力」というものを意識することはない。

 

そんな感じで「力」はあらゆる関係性に介在するように思うが、それがプレイヤーに意識されるかされないかの分岐には条件があるような気がする。

 

「力」が意識されるところで分かりやすいのは、皆んな大好き受験戦争などがある。ここでは純粋に知力や勉強への集中力とかがプレイヤーには意識されたりする。例えば受験勉強(あるいは学歴とか)に興味がない人や、圧倒的に知力があって何もしてないのに気がついたら東大に受かってたみたいな人は、本来こういう知力を意識する必要はないのだが、点数などで万人と定量比較されることによって意識しやすくなる。

だが、例えば、何かよく人に好かれたりする人とそうじゃない人とかで、後者は人に好かれる力がないということになる。そして、人に好かれるメリットが全くない人とか、何もしないでも生きてるだけで勝手に人に慕われていく人などは、そういう力を意識する必要も機会もない。そういう人が自分の「力」を意識するのはメタ認知などの特殊な技法をわざわざ使わないと難しいだろう。

 

上手く説明出来たか分からんけど、とにかくあらゆる関係性に介在する力の中でも、各々に意識されやすいものとそうでないものがあるように思う。

 

そんで、まあ言いたいこととしては、人間は自らが意識してない(あるいは高評価していない)自分の力について、それが欠如している人間を見ると恐ろしく残忍、という表現まではいかなくとも、全く同情には値しないという評価を下しがちだよなぁということである。そして他人の、その力の欠如によって発生する問題など取るに足らないものだと評価してしまうということである。まぁ、古来から言い尽くされた理だね。

でもそれ自体は良い。自分もそうだししゃーないことだ。

でもそこで、力がある者が力のない者からその非情な態度を断罪された場合に、被断罪者はあらゆる論理や整然とした美しい言葉を並べて自らのイノセントを証明する。そしてここで対象とされている「力」について、被断罪者が優位であることを以って、断罪者はその証明に閉口せざるを得ない。そういう場面を何度も観測したし経験した。

正義や正しさは、上記のような粗のない論理やキラキラした言葉を綺麗に並べて示現される。それらは人間の精神を貫徹し、集団を統一する手段として用いられる。だがその効力の実体は、論理や内容の普遍性などではなく、対象とされる「力」について優位性なんだろうなと経験則やらから何となく考えている。弱者への無理解と抑圧が社会正義や大衆倫理という正しさなどによって正当化されてしまうというのは、自明のコンセンサスであると思っているが、その正義や正しさの本質がこの文章でいう、「力」っぽいなぁという感じである。

要は、論理やレトリックなどによって補強された正義や正しさは、ただのバフでしかなくて、現実にある強弱関係を曖昧に見せるためのものでしかないのではみたいな感じである。これは良いことでも悪いことでもあると思う。

 

でも、そういう感じだから、僕はいかに洗練された論理やレトリックを使って主張の正しさを示現されても、所詮はただの言葉遊びではないかと心の中で嘲笑する。現実を見ろと。そして意思決定や具体的行動を目的としないあらゆる議論(討論)に消極的である。言葉ではなく行動しろと。でもこういう事を言葉に出してしまうと社会生活は破滅してしまう。破滅した。止めましょう。

 

おわり。自分でも何言ってるか分からん。