終わりの気配

ベットで寝て、タバコをふかし、そして寝る。希死感を紛らわすためのゲームやらの下らない情報刺激を取り込み、この取るに足らない人生というものをやり過ごしている。

 

これまでの生の中では限りなく終わりに近づいているのを感じる。おそらく今後まだ人生をやっていく中ではもっと具体的に感じられる瞬間があるのだろうが。

 

希死念慮は慢性的なものでそれ自体が、具体的衝動を駆り立てるということは、少なくともこれまでに感じたことはない。が、ある一定の起爆剤を投下することで、実感として積極性を持ち始めるということが分かった。

死への条件である。

 

今全てを終わらせることに何の抵抗もないが、重要なのはこの瞬間に感じられる、死のタイミングについての意味の無さというべきか、あるいはこの身体の生理運動が為すあらゆる営みが虚無であるということを強く理解されているということであろう。

しばしば、これを形而上的に理解することはあるが、希死への積極性が発生した今において強く感覚として理解出来るようになっているのは面白さというか、せめてもの生への充足を与えている。

この退廃した精神にも幾ばくか、生への充足が与えられることに対する肯定的な反応があることは、自分が人間であること、即ち世俗的生理体であることという観点から見て喜ばしいことなのだろう。

おれも形而上的な精神の美徳や瑕疵の無さというもののみに、人生の目的というか生きていくためのせめてもの動機を見出すほど、子供でもなくなった。

宇宙や自然のなかで、ゴミ粒・蛆虫程のスケールしかないこの人間という有機体に身を委ねて、プログラムされた生をしがなくやっていくこと、それに甘んじる気持ちも数年前に比べればある程度発達しているのである。

しかし、それはただ、受け容れているということに過ぎない。絶えず受け容れ続けているに過ぎない。

自らの意志のようなものを使用して、世界、いやもう少し有り体に言えば社会に同化し、やり過ごしていくこと。この無機質な営みを断続的に受け容れてはいるが、あるタイミングで拒否することもあまりにも容易なのだ。

 

最近は幸福論や処世術などについての何人かの著作を読んでいる。それぞれ個性はあるが、やはりそういった論点に高い普遍性のある回答を提示するのは難しい。認知構造や神経伝達の機序には大いに個人差があるのだし当然である。

 

若いのに幸福などを追求するのは余りにも情けない事のように思う。おれにもまだそういう青い気持ちは少なからずある。

でも、幸福 (恐らくそれが神経的身体的健康状態のことを示してるということには異論はあまりないと思われるが) が無ければ、精神世界にこもることも、この世界の無機質さを忘れるだけの積極性も、そして生理的快楽を得ることも叶わず、自死へ収束されていく、というよりしていってる。

 

まだ死はおれには早いような気もする。でも気がするだけで、死んでもいい。

もし生きていくのなら、しばらく時間を置いて少しの平静を取り戻したおれはどう思うだろうか。あまり前向きにこの文章を読みたいとは思わなかったりするだろうか。

 

今回はオチはない。書きたいことは沢山あるが取り敢えずここで終わる。