比較的静かなカフェに来た。タバコの煙を肺に送り込みながら、注文したストレートティーが運ばれてくるのを待つ。

中途半端に内装に金を使われたカフェでは、暇を持て余した貴婦人達の井戸端会議に精神の静寂を撹乱させられてダメだということはこの前分かった。

 

新人っぽい女性のウェイトレスが茶を運んできた。喋り方がどこか形式的で、ぎこちない手つきでカップを僕の前に置く。彼女が家で麦茶でも飲みコップを台に置く時、このような動きはしないだろう。何らかの力が人間の動きを非人間的にする。

 

何らかの力は僕以外の人間には見えているのだろうか。恐らくそうであるように思う。このダークマターを観測しようと四半世紀努力してきた。

だがダメなのである。僕にはその正体の輪郭を捉えることが出来ない。結果的表出からその存在性や関数的特徴を推察するしかないのである。

 

人は何らかの気を操り、それぞれが重力のように放っている気を観測しながら振る舞い方を変え、さらにその振る舞いから各々がさらに振る舞い方の影響を受ける。

無限反射鏡のようなゲーム性を突き詰めた結果が、あのぎこちない動きに収束されていくのだろう。これは一体何をやっているんだろうかという問いも年々諦念に変わりつつある。このゲームの膨大なプレイヤー数が産む津波のような荒波に逆らうべくもなく疲弊させられる。

恐らくこの先元気が出る度にこの波に抗ったり、上手く乗りこなそうとしては疲弊する、そういう繰り返しが待つのだろう。

 

どんなゲームにも一定クリア条件とか勝利条件とかいうのがある。僕も比較的多数の人達が取り組むこの不毛なゲームのフィールドに立ち、その一定の勝利者と言って良い人達を観測出来るポジションに着くことが出来た。勿論、このゲームが局所的でその分ゲーム性も普遍的では無いことは言うまでもない。

そこで主観的に観測されたのは、そこはかとない虚無性であり、この文章で言えば、濃密な気が場を支配する曖昧模糊とした世界だった。

社会という、誰もが曖昧に認識はするが実態や輪郭について説明のつきにくい概念。それがこれなのだというのは理性的には理解出来たように思う。

「社会に出ると答えはない」という人は、なぜ答えはないという答えを知っているのか。答えの無さとは実際にはどういうことなのか。僕はその答えを自分の中で見出せていなかったのだと思う。今も勿論見出せていない。

今は何も分からない。ただ、ただ、目の前の問題を小さなところから解決し、やっていくしかない。ただ、やっていくしかない。そんな気力すらも今はあまり無いのだけど。

 

この展開は1年前には半分は予想していたように思うし、半分は予想出来ていなかった。色々よく分からないが取り敢えず会社は辞める。もう一度少しずつ分かりを発生させていくしか無いのだろうと思う。