猿山
権力というのは中枢の方へ行けば行くほど虚無が高まるような感じがしていて、それがあれらのどこと無い気味の悪さを増幅してるんだと思う。とにかく権威的意思決定機関には論理や理想みたいなのは一切介在しないのである。
そんなこと当たり前と言えば当たり前で、そういう虚無性にいつの時代も庶民は好奇心を抱いて歴史を記述してきたわけだし、ただそこをおれも通過しているだけなのだろう。
大学時代の自分の思考の記録を見たりするとやはり今よりより広い視点でフラットに物事を捉えられている感じがあって羨ましく思ったりする。
というのも最近は本当に俗に身を染めて、必然性を過大評価するようなことが多く、ダメになっている。思考にバランスを持たせる余裕のある時期に適切に指針を言語化しておく必要があるのかと思ったりもするが、たぶん意味ない。
昨日寝すぎたせいか、朝から体調が悪い。
人物
自分の内的必然性というものに何故こんなに抗い続けているのかという想いがあって、そこは本当に弱さだなと思う。そうした自分を慰めるために、自己に究極に向き合ってる人物が社会的に不遇を強いられているのを見て安心したりする自分を発見し、また情け無い気持ちになったりならなかったりする。
この手の自省的な観念を感じ始めて、実際に文字に起こすところまでいくというのも、酷く社会に犯されていて、自分と向き合いきれてないという証左の気もする。が、ともあれ実際にそのような状態になってしまっているので、とりあえず書くしかない。
人物という概念があって、そのような青臭さも自分の中では薄れつつあるのだけど、まあ昔から思い描いて来た人物像というものがある。詳細な言語化を狙うと面倒だが、要は広範な含蓄と深遠なる思想に裏打ちされた高度な倫理感と、具象世界におけるその実践とそれに伴う障壁の打開能力の帰属主体とかそんな所だろう。
何と青い概念か!
昔から自己への鍛錬欲みたいなのは人一倍(他人、特に男をそれほど観察していないので比較はよくできんが)あるような気はしていて、それならば、自らがどこを目指して鍛錬してきたのかを省察したときに浮かび上がる像というのが上記といった所だろう。書いてて吐き気がしてきた。
こう思想的に洗練(思想に洗練も何もあるのかという注はある)されていたり高度な倫理感(同注)の持ち主として浮かぶ人間の表徴をイメージすると、決まって極めて庶民的で一風変わったやや厭世観のあるおじちゃんなる。その手の人間は青年期は極めて激情的で自己を顧みない異常な理想主義者故に生きていくことすら困難みたいな感じな気はする。
自分がそのようなタイプかと言われれば方向性はそっちだろうが、全く自分が描く大人物の前には無に等しい無である。中途半端に器用ぶってバランスを取ってる無である。まあこういうのも今の気分を肯定するための、一方向的な、逆算思考の分析でしかないのだろうが。
書いてて思ったが、内省モードの発露は本当に気持ち悪いな。こう社会をやっていく上での、意味ネスの潮流に身体を持っていかれつつあって、弱ってるんだと思う。
要は、最近人生に真剣味が足りてないような感覚があって、何かこう観測世界に高強度に自分の手を加えたいなという感があるのである。
バランスを取りすぎている。
Youtuberになるか。
現場
日中は摂氏35、6度とかになって人が暑さで倒れたりしてる。人間は仕事のために倒れる。
ここ最近は全く本を読んでいない。たまたま知り合って曖昧な人達と毎日酒を飲みに街に繰り出している。当然体調が終わってくるし、酔ってタバコが一箱分消えてたりすると次の日の朝にしっかり寿命が縮んでるなと生を実感したりする。
新生活
例えば何らかの形で明日死ぬことが確定したとして、半年前ぐらいまでの自分であれば、「ああ、そうか了解」ぐらいのものだったのが、今は「あーまじか、それは萎える」という感じには生に執着が発生してきている。
この手の問いはだいたい暇なときによく自問されてそれはそれで面倒なのである。
それで、その執着の正体は何かと分析していたんだが、(そもそも自己精神を自己精神が省察するという行為自体が愚かしいとはいつも思うが)
どうも、小金が入ったことでもう少しブルジョワの生活を体感してみたいとか、そういうクソみたいな欲望とかがあったりする。
向上心も使いようだ。インテリが解く問題を間違えると面倒というのは社会でもありがちなパターンで、最適化へのコミットが強い分厄介であるみたいなのがよく散見されるっぽいが、それみたいだ。
まあ、他にも学をやったり世界に対するあらゆる試行とそのフィードバックの内面化が、自己の精神発達のダイナミズムの中に一定量取り込まれたときにどのような地平があるのか見てみたい的な淡い期待もある。
まあたぶん何もなくて変わらずただのっぺりとした世界が広がっているだけだろうが。
そういう将来というか潜在性への期待みたいなのは往々にして裏切られるし、歴史が飽きるほど証明してきたようにそういったものとは無関係に人間は死ぬし、まああんまり考えずやっていくしかないというお決まりの結論になる。やっていくしかない。
何が言いたいかというと、東京来たけどやることない。
仕事
労働はほんとうにクソで、なんとか色々工夫すれば面白くなったりするのかと思ったりもするけど、工夫しないと面白くならないのは終わっている。パチンコが最強なのだ。
労働、一定の生産志向が集団で共有されてないと一瞬でクソ化して職場はうんこの投げつけあいになる感じがしてるけど、一方で生産志向を保つのも膨大なエネルギーが必要で、純粋にダルいという問題がある。ダルいは最大の問題でおれは2年前くらいに解決するのを諦めた。解決を諦めた問題はアイデンティティとなる気がする。
うんこの投げ合いの職場では、純粋にうんこが不快という問題以外に無いような気がするが、何故かみんなは善人という自意識があってうんこを受け入れたり投げないで手渡ししたりに注力する。うんこは手渡ししようが投げようが臭い。
労働のクソさはそこに存在する全ての人間に等しく与えられるという点では良いと思う。クソさの共有は人間が最もお気持ち連帯を感じられる瞬間の一つだと思う。
社会人とかいうアイデンティティを持った狭量な人たちが我慢こそ社会だみたいなチキンレースをこぞってやっていくのは偶然ではない。社会と自己とを同化してしまうような無教養の人間の楽しみは他人と不幸を共有するぐらいしか無いのだ。
最近会社で軽い問題が発生したのだけど、ほんとうに良かった。責任問題は人間の器を可視化するので便利だ。問うことをサボってきたフェイク野郎はここぞすぐに悪手を指すし、何より若造は責任問題に巻き込まれることがない。
面白いからという理由でたくさん問題を引き起こしたいと思った。
性
世間ではジャパン的な父権主義に対して、実際の能力の限界とか若い人の指向性とかと乖離しすぎてるのではとか、フェミニズムの是非とか、もっと俗なのでは男が奢る奢らないみたいなのがてんやわんやと議論されているっぽい。
僕自身はそういうジェンダー論にはあまりこだわりはなくて、合意の下やることやればあとは何でもええんちゃうみたいなテキトーなんですが、それについての議論を観察したり一応脳内でポジションを取って思考実験したりするみたいなやつは面白い。
ジェンダー論に限らずかもだが、これはこうあるべきとかこういうのが正しいとか、そういう規範みたいなやつにポジションを取ったり、或いはもっと踏み込んで他者の行いを断罪したりするときには、論理学的思考法に基づいていたり、ある程度の批判を耐えていたりしてないと、さだまさしとか西野カナとかの域を出ないのではと思う。そういうのはポエムにしてツイッターの裏アカウントで呟いたり歌にしたりするのがよいと思う。
でも実際はみんなそれぞれが西野カナをやるし、十人十色のさだまさしが居るし、それぞれが女はこうで男はこうだみたいなやつをやっていてもっと自分に自信を持っていいのではと思ったり思わなかったりする。
まあ多くの人はそうは言いつつ、インテリジェントな人達がやってるようにジェンダーを相対化することはせず、その土地に根付いたジェンダーの在り方に(健全に)従って生殖をやっていくし、その方式に従わない人間を容赦なく殴っていく。社会はそういうもんだ。ゲイのフーコーがジェンダー論を一生懸命やっていった気持ちも少し分かる。いややっぱ分からない。
じゃあインテリジェントな人達は一体何をやっているのか。正しいジェンダー論の在り方はこうだみたいなのを洗練させて、或いはそれによって普遍っぽいコンセンサスが得られたとして、それが一体何になるというのか。何になるのかということを問うて何になるのか。