世間ではジャパン的な父権主義に対して、実際の能力の限界とか若い人の指向性とかと乖離しすぎてるのではとか、フェミニズムの是非とか、もっと俗なのでは男が奢る奢らないみたいなのがてんやわんやと議論されているっぽい。

僕自身はそういうジェンダー論にはあまりこだわりはなくて、合意の下やることやればあとは何でもええんちゃうみたいなテキトーなんですが、それについての議論を観察したり一応脳内でポジションを取って思考実験したりするみたいなやつは面白い。

ジェンダー論に限らずかもだが、これはこうあるべきとかこういうのが正しいとか、そういう規範みたいなやつにポジションを取ったり、或いはもっと踏み込んで他者の行いを断罪したりするときには、論理学的思考法に基づいていたり、ある程度の批判を耐えていたりしてないと、さだまさしとか西野カナとかの域を出ないのではと思う。そういうのはポエムにしてツイッターの裏アカウントで呟いたり歌にしたりするのがよいと思う。

でも実際はみんなそれぞれが西野カナをやるし、十人十色のさだまさしが居るし、それぞれが女はこうで男はこうだみたいなやつをやっていてもっと自分に自信を持っていいのではと思ったり思わなかったりする。

 

まあ多くの人はそうは言いつつ、インテリジェントな人達がやってるようにジェンダーを相対化することはせず、その土地に根付いたジェンダーの在り方に(健全に)従って生殖をやっていくし、その方式に従わない人間を容赦なく殴っていく。社会はそういうもんだ。ゲイのフーコージェンダー論を一生懸命やっていった気持ちも少し分かる。いややっぱ分からない。

 

 

じゃあインテリジェントな人達は一体何をやっているのか。正しいジェンダー論の在り方はこうだみたいなのを洗練させて、或いはそれによって普遍っぽいコンセンサスが得られたとして、それが一体何になるというのか。何になるのかということを問うて何になるのか。