人物

自分の内的必然性というものに何故こんなに抗い続けているのかという想いがあって、そこは本当に弱さだなと思う。そうした自分を慰めるために、自己に究極に向き合ってる人物が社会的に不遇を強いられているのを見て安心したりする自分を発見し、また情け無い気持ちになったりならなかったりする。

この手の自省的な観念を感じ始めて、実際に文字に起こすところまでいくというのも、酷く社会に犯されていて、自分と向き合いきれてないという証左の気もする。が、ともあれ実際にそのような状態になってしまっているので、とりあえず書くしかない。

 

人物という概念があって、そのような青臭さも自分の中では薄れつつあるのだけど、まあ昔から思い描いて来た人物像というものがある。詳細な言語化を狙うと面倒だが、要は広範な含蓄と深遠なる思想に裏打ちされた高度な倫理感と、具象世界におけるその実践とそれに伴う障壁の打開能力の帰属主体とかそんな所だろう。

何と青い概念か!

 

昔から自己への鍛錬欲みたいなのは人一倍(他人、特に男をそれほど観察していないので比較はよくできんが)あるような気はしていて、それならば、自らがどこを目指して鍛錬してきたのかを省察したときに浮かび上がる像というのが上記といった所だろう。書いてて吐き気がしてきた。

 

こう思想的に洗練(思想に洗練も何もあるのかという注はある)されていたり高度な倫理感(同注)の持ち主として浮かぶ人間の表徴をイメージすると、決まって極めて庶民的で一風変わったやや厭世観のあるおじちゃんなる。その手の人間は青年期は極めて激情的で自己を顧みない異常な理想主義者故に生きていくことすら困難みたいな感じな気はする。

自分がそのようなタイプかと言われれば方向性はそっちだろうが、全く自分が描く大人物の前には無に等しい無である。中途半端に器用ぶってバランスを取ってる無である。まあこういうのも今の気分を肯定するための、一方向的な、逆算思考の分析でしかないのだろうが。

書いてて思ったが、内省モードの発露は本当に気持ち悪いな。こう社会をやっていく上での、意味ネスの潮流に身体を持っていかれつつあって、弱ってるんだと思う。

 

要は、最近人生に真剣味が足りてないような感覚があって、何かこう観測世界に高強度に自分の手を加えたいなという感があるのである。

 

バランスを取りすぎている。

Youtuberになるか。