充実と過信

ある人に言った。

 

「人生はいつからでもやり直せる。いつ何時も大切なことは、今この瞬間に前へ進めているかどうかではないのか。今自分がどこ立っているのかは重要ではないだろう。」と。

 

いかにも筋の通った言い分のように思える。実際、自分自身の信念のようなものの中に、そういった軸は確実に存在する。私は嘘偽りなく、飾りもなく、本心からそう言ったのだ。

でも何か、自分の放った言葉に拭えない嫌悪感を感じるのである。上から目線で何を偉そうなことを、という要素もあると思う。でもそんな安易な言葉では表したくないモヤモヤが確実にある。

 

 

 

前回このプログに文章を投稿してから3年が経った。

この間、自分が為したこと、生産したことは文字通り何も無いと言っていい。ただただ、生きていた。生かしてくれる人のもとで、何もせず生きてきた。

過ごしている間は、自分なりにその時間に意味を与え、或いは現実に風呂敷を被せ、目を背けるなどしてきた。これらの作業はただ生きるという無機質な時間を過ごす上で、必要なことだったと思う。

でも今振り返ると、それは当時与えていた意味付けとは違う、意義ある時間だったと思う。

 

3年前の私は精神的に極度に疲弊していた。当時の思考は、混乱し、抽象的で、ニヒリックで、それでいて純粋で、今より幾分も研ぎ澄まされていたように思う。

そうした思考は、無機質ではあるが静謐な時間の中で、ゆっくりと自分自身の中に沈着していったよう思うのである。

 

自分は幾ばくか、穏やかな人間になったと思う。それは、元々ある自分の中の攻撃性とか激情性が無くなったということではない。身の回りの情報や刺激に対して自分の中から湧き出す反応が、以前よりもはるかに穏やかになったという実感があるのだ。俗に言えば、少しは大人になったということだろう。

 

それは自分の自覚として存在してるのである。この自覚は自分に充実感を与えていると思う。以前に比べ、不都合な物事や問題に動じなくなったと思うのだ。

同時に私は、その自覚の中に僅かな自惚れのようなものを感じることが、この頃しばしばある。

私は人間の不完全性を信じている。思っているのではない。信じているのだ。私が感じるこの自惚れのようなものは、この信心に少なからず反するようなものに感じるのである。

 

これが、私が放ったセリフの源泉であり、それにそれに対する嫌悪感の正体のような気がする。

 

私にはまだ何も分からない。

無理解の正当性

梅雨が明けたと思ったらまた雨だ。しばらく続くっぽい。

 

雨は低気圧がどうのこうのになって降る、というのを義務教育で習った気がする。義務教育は全部無視していたのに、自分がなぜ義務教育の内容を大方覚えているのかは謎である。

 

ともかくとして、低気圧のせいで神経衰弱の僕はオワオワリしている。低気圧が来るとオワってしまう身体なのだ。仕組みは調べたことないけど、観測範囲内の同じような人類もまた軒並みオワっているので、低気圧がお気持ちな人々を惨殺していくのは確かなのだろう。

 

ところで、最近は広義での「力」という概念について考えている。たとえば僕は低気圧で即死するので低気圧への耐性というか抵抗力が恐ろしく低い。だが普通の人は耐性があるのでそこについての「力」というものを意識することはない。

 

そんな感じで「力」はあらゆる関係性に介在するように思うが、それがプレイヤーに意識されるかされないかの分岐には条件があるような気がする。

 

「力」が意識されるところで分かりやすいのは、皆んな大好き受験戦争などがある。ここでは純粋に知力や勉強への集中力とかがプレイヤーには意識されたりする。例えば受験勉強(あるいは学歴とか)に興味がない人や、圧倒的に知力があって何もしてないのに気がついたら東大に受かってたみたいな人は、本来こういう知力を意識する必要はないのだが、点数などで万人と定量比較されることによって意識しやすくなる。

だが、例えば、何かよく人に好かれたりする人とそうじゃない人とかで、後者は人に好かれる力がないということになる。そして、人に好かれるメリットが全くない人とか、何もしないでも生きてるだけで勝手に人に慕われていく人などは、そういう力を意識する必要も機会もない。そういう人が自分の「力」を意識するのはメタ認知などの特殊な技法をわざわざ使わないと難しいだろう。

 

上手く説明出来たか分からんけど、とにかくあらゆる関係性に介在する力の中でも、各々に意識されやすいものとそうでないものがあるように思う。

 

そんで、まあ言いたいこととしては、人間は自らが意識してない(あるいは高評価していない)自分の力について、それが欠如している人間を見ると恐ろしく残忍、という表現まではいかなくとも、全く同情には値しないという評価を下しがちだよなぁということである。そして他人の、その力の欠如によって発生する問題など取るに足らないものだと評価してしまうということである。まぁ、古来から言い尽くされた理だね。

でもそれ自体は良い。自分もそうだししゃーないことだ。

でもそこで、力がある者が力のない者からその非情な態度を断罪された場合に、被断罪者はあらゆる論理や整然とした美しい言葉を並べて自らのイノセントを証明する。そしてここで対象とされている「力」について、被断罪者が優位であることを以って、断罪者はその証明に閉口せざるを得ない。そういう場面を何度も観測したし経験した。

正義や正しさは、上記のような粗のない論理やキラキラした言葉を綺麗に並べて示現される。それらは人間の精神を貫徹し、集団を統一する手段として用いられる。だがその効力の実体は、論理や内容の普遍性などではなく、対象とされる「力」について優位性なんだろうなと経験則やらから何となく考えている。弱者への無理解と抑圧が社会正義や大衆倫理という正しさなどによって正当化されてしまうというのは、自明のコンセンサスであると思っているが、その正義や正しさの本質がこの文章でいう、「力」っぽいなぁという感じである。

要は、論理やレトリックなどによって補強された正義や正しさは、ただのバフでしかなくて、現実にある強弱関係を曖昧に見せるためのものでしかないのではみたいな感じである。これは良いことでも悪いことでもあると思う。

 

でも、そういう感じだから、僕はいかに洗練された論理やレトリックを使って主張の正しさを示現されても、所詮はただの言葉遊びではないかと心の中で嘲笑する。現実を見ろと。そして意思決定や具体的行動を目的としないあらゆる議論(討論)に消極的である。言葉ではなく行動しろと。でもこういう事を言葉に出してしまうと社会生活は破滅してしまう。破滅した。止めましょう。

 

おわり。自分でも何言ってるか分からん。

終わりの気配

ベットで寝て、タバコをふかし、そして寝る。希死感を紛らわすためのゲームやらの下らない情報刺激を取り込み、この取るに足らない人生というものをやり過ごしている。

 

これまでの生の中では限りなく終わりに近づいているのを感じる。おそらく今後まだ人生をやっていく中ではもっと具体的に感じられる瞬間があるのだろうが。

 

希死念慮は慢性的なものでそれ自体が、具体的衝動を駆り立てるということは、少なくともこれまでに感じたことはない。が、ある一定の起爆剤を投下することで、実感として積極性を持ち始めるということが分かった。

死への条件である。

 

今全てを終わらせることに何の抵抗もないが、重要なのはこの瞬間に感じられる、死のタイミングについての意味の無さというべきか、あるいはこの身体の生理運動が為すあらゆる営みが虚無であるということを強く理解されているということであろう。

しばしば、これを形而上的に理解することはあるが、希死への積極性が発生した今において強く感覚として理解出来るようになっているのは面白さというか、せめてもの生への充足を与えている。

この退廃した精神にも幾ばくか、生への充足が与えられることに対する肯定的な反応があることは、自分が人間であること、即ち世俗的生理体であることという観点から見て喜ばしいことなのだろう。

おれも形而上的な精神の美徳や瑕疵の無さというもののみに、人生の目的というか生きていくためのせめてもの動機を見出すほど、子供でもなくなった。

宇宙や自然のなかで、ゴミ粒・蛆虫程のスケールしかないこの人間という有機体に身を委ねて、プログラムされた生をしがなくやっていくこと、それに甘んじる気持ちも数年前に比べればある程度発達しているのである。

しかし、それはただ、受け容れているということに過ぎない。絶えず受け容れ続けているに過ぎない。

自らの意志のようなものを使用して、世界、いやもう少し有り体に言えば社会に同化し、やり過ごしていくこと。この無機質な営みを断続的に受け容れてはいるが、あるタイミングで拒否することもあまりにも容易なのだ。

 

最近は幸福論や処世術などについての何人かの著作を読んでいる。それぞれ個性はあるが、やはりそういった論点に高い普遍性のある回答を提示するのは難しい。認知構造や神経伝達の機序には大いに個人差があるのだし当然である。

 

若いのに幸福などを追求するのは余りにも情けない事のように思う。おれにもまだそういう青い気持ちは少なからずある。

でも、幸福 (恐らくそれが神経的身体的健康状態のことを示してるということには異論はあまりないと思われるが) が無ければ、精神世界にこもることも、この世界の無機質さを忘れるだけの積極性も、そして生理的快楽を得ることも叶わず、自死へ収束されていく、というよりしていってる。

 

まだ死はおれには早いような気もする。でも気がするだけで、死んでもいい。

もし生きていくのなら、しばらく時間を置いて少しの平静を取り戻したおれはどう思うだろうか。あまり前向きにこの文章を読みたいとは思わなかったりするだろうか。

 

今回はオチはない。書きたいことは沢山あるが取り敢えずここで終わる。

ニリヒック

誰もいない中核都市のカフェ。

文章は書くのはいつもカフェのような気がする。いつものようにタバコをふかしながら書いている。カフェは精神を少しばかり解放して創作意欲を生むのかもしれないという発見がある。

 

書きたいことはタイトルの通りである。ここ3ヶ月は恋人存在もあってか比較的自律神経が安定していたように思う。しかし、所詮は生理循環の中の一過性のもの。表層的な環境の変化は個人の生理リズムに比べればそこまで身体に及ぼす影響は大きくないと言うことだろう。

これはそこそこの失望でもある。環境をどうこうしたところで、この不便な生理体の働きには抗うことは出来ない(可能性が高い)。どんな場所でどんな人間に囲まれていても、一生この不便な枷と共にやっていくしか無いのだ。これが最近の1番の辛さだと思う。

何をやってもどうしようもないのだ。

結局はどれだけ言っても人間関係だ。人間関係を無くしては何者も満たされることは無い。

いや満たされる必要はないのだが、ただただ、生きる実感の中に埋もれたい。それを得たい。その中に埋まり、酔っていたい。しかし、酔いも生理循環の中ですぐに平静を取り戻していく。そしてすぐに絶望が襲う。

 

何者にも意味を感じない。無気質の中に何らかの抵抗を示すのにも疲れてきた。何もない。おれが作り出す現象的世界には何もないのだ。何もない。幸せにも脳は反応しない。ここまでニヒルになるのは初めてかもしれない。助けて欲しいと思う。そういう時こそ救いとは全く相容れない他者の接触が増える。何なのだ。社会とは。世界とは。何で生きていかなければいけないのか。何故おれはその中で(物理的にも精神的にも)必死に死ぬこともなく、生きようとしているのか。

哲学も思想ももう飽き飽きだ。救いが欲しいという気持ちも枯れてしまった。何も無い。本当に何も。

気付き

深夜にタバコをふかす。昼間に吸うのと夜に吸うのではだいぶ感じが違う。血圧とかの問題だろう。

今日誰かが三寒四温とかいうワードを使っていたが、急に寒くなったりならなかったりするこの時期の現象を雑に表す便利な言葉があるもんだと思った。

それはまあいい。それよりも最近は新しく何らかを知ることについて冷めた気持ちになっている。そのことについて考えていた。

 

ある事象や概念などについて、新規的な発見が発生した際に、その発見が対象の本質的要素というか全体性を濃く意味付ける要素のように感じられてしまうのは、個人的には脳のバグだなぁと感じてしまう。

勿論、生存や種の保存とかに合目的化されてるなどの身も蓋もない話をすればそうなんだろうけど、そういう話は芸がないし3.4年前に飽きている。

発見直後の情報の瑞々しさというか、即自性というか、そういうものから増長させられる情報量に対して、おれの脳のスペックが処理しきれなくて過大に意味付けしてしまう部分はあるだろうし、その仮説が当たっているなら改めておれの脳機能のポンコツさを恨むところではある。

何が言いたいかというと、ほんの1.2年前(実存的な観点からの1.2年がほんのと言えるかは怪しいが……)に現象世界やレビィナス的文脈でいう「顔」の、本質のように感じられた要素の発見が、今から考えればほんの一部分を照らした側面にしか過ぎないし、同時に今自分が強めに意味付けしている発見も然程のものではないということを考えてしまっている。

世界や人生の意味のなさなどの無味乾燥とした話をしたい訳ではない。最近は意味論こそやや宗教じみてるのではという見地でもある。そういう議論を離れたとしても、意味を見出そうとするのは人として自然の在り方で、そのことを相対化するのもかなり不毛な気がするのである。

話は逸れたが、要は即時的に大きな情報量を持つ発見が、脳の生理的サイクル(要は時間)を経て然程のものではないという再評価に収束していく中で、その発見自体から引き起こされる興奮とか、もっと自虐的に言えば救済性のようなものが些事として相対化されてしまうところがあって、それを言語化したいと思っていた。

でも、少しばかり前向きに考えれば、一部の側面を示したにすぎない発見を脳が即時的に過大評価しているものとしても、そういう積み重ねが事象や概念に対する認識に意味付けとしての熟成を与えてるのだとすれば、認知不協和の悲哀はあるとしても、そういうものだとして受け容れてやっていくしかないのだろう。

まああまり考えても良い方向に行くものでもないだろうし、こういう感じで折り合いを付けて、力を入れない程度の発見をやっていくしかないんだろうな。

水野朝陽っていう女優が良い。

生きること

ベイクドチーズケーキストレートティーのセットを頼み、品が来るまでたばこをふかす。

 

生きていくことに何のモチベーション湧かない。やることがない。あらゆるものが些細なことに思われる。無教養ゆえの頽廃なのだろう。

具体的な生活や生きていく上で直面する細かな課題の連続とか、そういったことを記述できたらどんなに良いかと思ったりもする。そういった断続的な世界との交わりの中では精神の機微に気を使う間もないし、結局記述することはないのだろうけど。こうした記録の場ではやはり抽象的な思考の表出に留まってしまう。

 

幸福を目指すことに脳がもう少しはっきりとインセンティブを感じる構造だったら良かったと思う。何が良かったのかは分からない。少なくともこうして何の生産効力を持たない文章を吐き出すことはない。ただ、自己の幸福認知構造に合わせて振る舞いや思考機序を最適化していけば良いのだ。ただそれだけ。完璧は無理にしろある程度の最適化を行える知能はあるだろう。だが、そういった事をしない。目標設定、インセンティブ認識、そういったものがどうしても幸福を曖昧に捉える。おれは一生幸福といったものに捉えられることなく、こうして一人嘆きを続けていくのだろう。哀れだと思うのにももう飽きた。救われたいとは思う。だが救いなどはないのだ。

 

超俗性は弱さ以外の何者でもない。凡俗であることを許容出来ない。それは生きていく上で余りにも大きな枷のように思う。骨の芯から俗性を排除する気運が発せられる。俗を廃した先に何がある訳でも、また何かあったとしてそれが大きな意味や報酬をもたらす訳でもない。ただ、精神の構造がそのように設計され、枷から逃れることもできず苦しみながら生きていく。

自分が何を目指し何を求めているのか全く分からない。いつまでも分からないのだろう。世界を嘆きながら、俗の流れに逆らうこともできずにただ何となく過ごし、生きてきた道を肯定していく切ない作業に身を捧げることしか出来ないのだろう。

とにかく今は高い失望感が身を包み何も希望がない。求めすぎているな。出家するか。

比較的静かなカフェに来た。タバコの煙を肺に送り込みながら、注文したストレートティーが運ばれてくるのを待つ。

中途半端に内装に金を使われたカフェでは、暇を持て余した貴婦人達の井戸端会議に精神の静寂を撹乱させられてダメだということはこの前分かった。

 

新人っぽい女性のウェイトレスが茶を運んできた。喋り方がどこか形式的で、ぎこちない手つきでカップを僕の前に置く。彼女が家で麦茶でも飲みコップを台に置く時、このような動きはしないだろう。何らかの力が人間の動きを非人間的にする。

 

何らかの力は僕以外の人間には見えているのだろうか。恐らくそうであるように思う。このダークマターを観測しようと四半世紀努力してきた。

だがダメなのである。僕にはその正体の輪郭を捉えることが出来ない。結果的表出からその存在性や関数的特徴を推察するしかないのである。

 

人は何らかの気を操り、それぞれが重力のように放っている気を観測しながら振る舞い方を変え、さらにその振る舞いから各々がさらに振る舞い方の影響を受ける。

無限反射鏡のようなゲーム性を突き詰めた結果が、あのぎこちない動きに収束されていくのだろう。これは一体何をやっているんだろうかという問いも年々諦念に変わりつつある。このゲームの膨大なプレイヤー数が産む津波のような荒波に逆らうべくもなく疲弊させられる。

恐らくこの先元気が出る度にこの波に抗ったり、上手く乗りこなそうとしては疲弊する、そういう繰り返しが待つのだろう。

 

どんなゲームにも一定クリア条件とか勝利条件とかいうのがある。僕も比較的多数の人達が取り組むこの不毛なゲームのフィールドに立ち、その一定の勝利者と言って良い人達を観測出来るポジションに着くことが出来た。勿論、このゲームが局所的でその分ゲーム性も普遍的では無いことは言うまでもない。

そこで主観的に観測されたのは、そこはかとない虚無性であり、この文章で言えば、濃密な気が場を支配する曖昧模糊とした世界だった。

社会という、誰もが曖昧に認識はするが実態や輪郭について説明のつきにくい概念。それがこれなのだというのは理性的には理解出来たように思う。

「社会に出ると答えはない」という人は、なぜ答えはないという答えを知っているのか。答えの無さとは実際にはどういうことなのか。僕はその答えを自分の中で見出せていなかったのだと思う。今も勿論見出せていない。

今は何も分からない。ただ、ただ、目の前の問題を小さなところから解決し、やっていくしかない。ただ、やっていくしかない。そんな気力すらも今はあまり無いのだけど。

 

この展開は1年前には半分は予想していたように思うし、半分は予想出来ていなかった。色々よく分からないが取り敢えず会社は辞める。もう一度少しずつ分かりを発生させていくしか無いのだろうと思う。